夜参り真言 平成28年9月6日

夜参り真言 平成28年9月6日

夜参り真言 平成28年9月6日

拝殿での真言

三輪の庵に集ひし者たちよ。それぞれが三輪の神 伊邪那岐の神 伊邪那美の神 雷の神の(いしずゑ)となるべし。美和に反することあまたあれど、一人一人が三輪の神の礎となるべし。

解説

三輪の神(美しい和)に反することが世界に多いが、そうであったとしても伊邪那岐

伊邪那美 いかづち 三輪の神(大物主)の望む世の中を作るための礎になりなさい。

今の世界情勢を踏まえて言っているようだ。

 

神宝社での真言

何事も一歩一歩進むべし。能力があると思ひてもなきと思ひても一歩一歩進むが良い。

扉は暫時開かれて行くであらう。諦めることなく、諦めることなく前へ進むべし

解説

どんなことがあっても、もしくは目的が定まらないという場合があったとしても、ともかく一歩一歩前へ進んで行きなさい。

そうすれば、必ず三輪の風が吹いてきて、困難と思っていることでも、能力があるかないかということも越えて風が吹いてくるからそれに乗って行きなさい。

 

狭井神社での真言

己の姿鏡に照らすべし。照らすべし。鏡とは何ぞ。己を照らすものぞ。己の心と

躰を鏡に照らすがよい。さすれば己の穢れ

悪しきところ、ことごとくわかるであらう。

ただ神に頼るのではなく、己を見ることこそ大事と思し召せ。己の穢れを知らずして穢れを祓ふことは出来ぬ。先ず己の穢れをよく知るべし。穢れを知り、祓ふ心ありて祈らば必ず祓へは出来るであらう。

解説

三輪の神に頼むだけでなく、まず自分をよく見なさい。神社に鏡が祀ってあるのもご神体として手を合わせ、鏡に写るのはあなた自信であるから、先ず鏡を見てどこに問題があるかを見なくてはいけない。

例えて言えば自分の躰も同様で、ただ治してください、その方法を教えて下さいというのではなく、自分なりに躰の今の状態を鏡に写してどこに力が入らないか、腰のどこの関節が悪いのか足首か足の指かを自分で分析しながら見ていかなければならない。

心の方も自分に問題があって、それが解決出来ないとかひっかかる部分があるとだめでこだわりを取っていくように努力する。

鏡に心も躰も写してよく考えてみなさい。そうすることで何が原因かが分かる

ただ何を祓うかを自分で理解して、肉体的あるいは心の問題として「祓い給え 浄め給え」と唱える

これは祓いの極意である。自分のこだわりがどこにあるか徹底的に剥がしてみる。

日本で一番強い三輪の神が付いているという「信」の一字をもつ。

剥がした時、自分の心と躰と神とが「信」の一字で繋がるようになったら、それは本当の盤石といえる。堂々と進んでいくことが大事である。

仏教では妙好人(学歴の無い人がひたすら御念仏を唱えて悟りの道へ入り、そうした境地に立ち一生を貫いた人。その人達の修行は目の前を歩く釈尊の足跡を辿りながら、釈尊の唱えるお念仏 南無阿弥陀仏を唱え仏を信じる境地に達する )と似ている。

我々の場合は日本最強神である三輪の神、そして三輪山に居ます雷の神、その神の上に御座する伊邪那岐と伊邪那美の神そういう存在を信じきれる者となるともう何者も恐くはなくなる。

三輪の神と信をもって自分の心と躰を一体化するのがひとつの修行である。

『説を取ば不可得(ことをあげればうべからず)』六根清浄大祓より

これは信じることに関して議論しても意味がなく、理屈でなく全託して信じきれるかどうかということで、ここに哲学との違いがある。

自分に与えられたテーマについて能力に拘わらずやり続けてみる。そうした時自分が何であるか、神が何であるか感じられる境地に達するであろう。

人間はどんなに名誉や財産を持っていても満足できないものである。

自分が神聖なものに接するもしくは一つになったと感じることが、生きていることの意味になる。「信」の一字でもって神と心と躰をつなぐようにそのようになれるよう努力をすることが大事である。