今月の真言 平成26年6月17日

夜参り真言      平成26年6月17日

「拝殿

 

罪、穢れあまたあり。すべての拘泥りは穢れと思ふべし。病むことあらば三輪の山に心を合はせるべし。

大きく広く山のごとくせよ。さすれば何事も些細なことと気づくであらう。

神の心は大きい、山の心も大きい。心を大きくせよ。

良きものも、悪しきものもすべて呑み込むべし。怖れることはない。

解説

心に掛かってくる拘泥りはすべて穢れである。心、躰病むことがあるが、山に自分の心を合わせなさい。

三輪は、弥生時代から今日に到るまでいつの時代も堂々と緑豊かに大和を見かしていた。良い・悪い、いろいろな価値観の時代があるが、いつの時代も三輪山は厳然として存在し続けてきた。だからこそ三輪山に心を合わせるのである大いなる三輪山につつまれれば全てが些末なことに見えてくるであろう。神の心は非常に大きく、神宿る山の心も大きい。ピンからキリまで種々な人が三輪に来るが三輪は懐深く、すべて受け入れている

生きるということは、良いこと悪いことさまざまな事が起こる。一つの社会に良い人も気の合わない人もいるが、全部み込んでしまいなさい。

三輪山がついているから何があっても、受けて立ちなさい。自ら山から離れていかない限り、三輪山は常に後ろに控えている。日本で三輪の神より強い神はない。

 

<水無月の祓えについて>

6月の大祓を水無月の祓えともいう。祓えの根本は自分の心に於ける穢れを祓うことである。それは心を整理することに通じる。自分の部屋を時々大掃除するように、心の中も本当に必要なものとなんらかの感情的なしこりを分け、しこりの方は掃除して棄てる。神社にお参りするときも雑念が沢山入っていると神からのエネルギーは入らない神の放つエネルギーは平等であっても、受け入れる側が充分にそのエネルギーを受け取ることができるかが大事なのである。神社で霊的なものは祓われるが、心の穢れを取るコツは自分で自分の心の中にあるものを分析してネガテイブなものを捨て去っていくことである。これは意識しないと出来ない。ここ半年抱えている自分の穢れがどんなものか意識しながら今夜のお参りにいく。棄てたものは拾わない。これを徹底すると神との同一感が生じ、自分の心と神の心を繋げやすくなる。

 

六月は大祓えと百合祭りがある。百合祭りは、神武天皇が大和に入ってきた時、7人の乙女の先頭がささゆりを持っており、その先頭の乙女を気に入り妻にしたという故事があるが、(伊須気余理比売)、それに因んだ祭りである。祭りに用いられる笹百合は日本で一番古い百合である。薬効としては、根がノイローゼに効く。漢方の百合の由来は、病という百の病が合わさったような病にに効くから百合という名がつけられた。和名のゆりはゆり動くということ、すなわち風に花がたゆたっている姿に因んで名づけられた。お山する時、途中狭井川を渡るが、狭韋は百合の古名である。

 

〈神に接する心〉

もし自分が神であったら、神は何を自分に求めるだろうかと自分に問うことである。基本は三輪の心、すなわち三重の輪であり美しい和。それを具現化していくことが大事なのである。多くの人が集まるとデコボコがあるがいかにそれを調和させるか。自分の心に於いてもそれを調和させていくことが肝要である。司馬遼太郎は『この国のかたち』の第5巻に於いて“三輪の山は一瞬の嵐気によってわかる者のみにメタファーとして伝える”と書いている。心が整っていないと三輪山が伝えようとしていることをキャッチできない。最近エネルギーが強くなってそれを強く受けるものが出て来ている。先だって三輪のホームページに掲載した拝殿に光がでてきた写真があるが、それは我々に強いエネルギーがかかってきているということを意味している。先月の社の上に出た光環(太陽のまわり虹の輪)も自然現象であったとしても我々に対するひとつの啓示である。心してお参りすることが大事である。

良い友を持つのと同じように神と仲良くすることはとても大切なことであるが、敢えて自分から神の声を聞こうとか姿を見ようと思わない方が良い。それは必要な時響いてくるものである。

自然体で臨むのがよい。日本の伝統文化という問題と祓えというもの、自分が神であったら神は何を望むか。

ということなどに思いを致すと良い。今日の夜参りの時、ささゆりがさいているのでこの香を楽しみ祓えとするように。目から鼻から耳からの祓えを!