今月の真言 平成26年7月8日

夜参り真言      平成26年7月8日

 

ミーテイング(夜参り前)

先月6月は大祓の月であったが、旧暦では今月、穢れを落とし残した人はきれいに祓うように。穢れを祓うには三輪の神と一体化すること、これが一番のコツである。怒の心、悲しみの心があると曇ガラスとなって光が入るのを邪魔する。常にニュートラルな気持で、流しきれないものもあるが、努力して山に合わせようとする。しまつの悪いのが怒に関するもので、流しきれないものを流せるようにと祈る。心を空にしてお参りした時に、三輪と心を一つにする。これが常に出来ることが大切。三輪は三重の強い輪であり、人と人を結ぶ和であり、人と神を結ぶ和魂。一人で山をするのではこの和の形は出来ない。出来るだけひとりよがりにならないためにも一緒に来て、行動するのが和の形。こういう訓練は修行といえる。一人だと気楽だがそれで悟ることはない。その中でテーマをこなしていく。三輪が我々に与えたテーマは美しい和だから苦手なものも受け入れキャパシテイを広げていく。世の中が殺伐になっているおり、和を出来るだけこころがける。聖徳太子の和もそうであるし、以前よりある和魂を中心に 幸魂 奇魂と祈る。自我の出る祈りは曇となるのでよくない。

 

六根清浄祓いの祈詞が大事である。

六根清浄大祓

 

天照 皇太神の 宣く 人は 則 天下の神物なり

 人というのは地に降りてきた魂であるが、神と繋がっている神の宿り物である。

 

須 掌 静 謐 心は 則 神明との本の主たり

 しづまる心こそ神と繋がる(荒ぶる心は神に通じない)

 

莫 令 心 神 是 故に目に諸の不浄を見て心に諸の不浄を見ず。耳に諸の不浄を聞きて心に諸の不浄を聞かず。鼻に諸の不浄を嗅て心に諸の不浄を嗅がず。口に諸の不浄を言て心に諸の不浄を言はず。身に諸の不浄を触れて心に諸の不浄を触れず。 意(こころばせ)に諸の不浄を思ひて心に諸の不浄を想はず。 此時に清潔よき偈(こと)あり。

人は天の下の神物であるがゆえに自分の鎮まる心であり神や森羅万象と繋がってているを心を傷つけてはならない。

だから目からいやなものを見ても心を穢さない。耳からいやなことを聞いても心は穢さない。五官からはいるネガティブな情報に汚されてはならない。又心の雑念に汚されてはならない。心は鎮まることにこそ気をつけべきである。

 

諸の法は影と像の如し

諸々の法則は影と形のようについてくる。心が乱れなければ法則通り神に通ずる。

 

清く浄れば假にも穢こと無し

 五官を清め心を清くしておけば、穢れることはない

 

(こと)を取(あげれ)ばうべからず。

 これを議論してはよくない。信じなさい。

 

皆花よりぞ木の實とは生る

 日頃からそのようにしておけば心に花が咲いて実として結実する

 (世阿弥は『風姿花伝』で時分の花を咲かせよといっている)

心を清めて神の心を受け入れられるようにしておく。

 

我身は則 六根清浄なり

 そうすれば六根(目 鼻 口などの五官、)が清々しく清められる

 

六根清浄なるが故に五臓の神君安寧なり

 六根が常に清まっていれば六根から影響のある五臓にも神が宿り内臓を治める。

 

 

五臓の神君安寧なるが故に天地の神と同根なり

 心が平らかになれば天地の神と同根になる

 

天地の神と同根なるが故に萬物の霊と同體なり

 天地の神と自分の心が繋がっていれば曼物の霊ともまた人と人とも通じる

 

萬物の霊と同體なるが故に為すところの願いとして成就せざることなし。

 自分の願いが天地の願い、万物の願いとなるから決して成就しないということはなく、自分の思いが必ず叶う。

 

無上霊寶神道加持

 これ以上の法はない

この教えの中でひとつだけ気をつけることは自信

を持ちすぎないよう常に謙虚でなくてはならない。

 

ポイント

常に六根清浄を心にかける。そして六根清浄のうしろの神と交流し心をけがさないように。

心がニュートラルであればそこから発せられる気も陽も強くなるし神の気をもらうことも出来る。

心から発する言葉が言霊となって、万物に響いていくようになる。

天地と神にも届くので、祈りの原点は六根清浄である。

いかなる時もニュートラルで臨む。

無上霊寶神道は三輪である

三輪の磁場にはそこに参るものを助けようとする神がいる。

自分の清浄な心(しん)と神の(しん)信ずるの

信(しん)をひとつにする。

本来の法則はシンプルだが、その故にわかりにくい。会得するにはたゆまぬ努力が必要である。嫌いイヤは人間だから仕方ないがキャパシテイを広げるようにする。世の中は全て行であって祓いたまえはそれだけで払える訳ではなく祓うという形を作ったということである。それを実社会で積み上げ山にきて見てもらう

山は日常の生活とは別と考えては、成就も出来ない

うたを音霊として響かせる。神の世界にはうたの良し悪しを図るランクずけはないので響きの良いものを作る。旨い下手ではない。三十一文字に心を載せ響かせる。自分の存在の意味、何を為すべきかがわかる。

 

「真言」

「狭井神社

 

罪、あまたあり。罪あまたあり。

祓ひがたきもあり、されど日々怠ることなくひとつひとつ祓ひゆくべし。

人の世に戻りても三輪の心を忘るることなく祓ひを行ひ進むべし。

 

解説

罪の中には祓へないものもあるが、たとえそうであったとしてもテーマとして少しずつ祓え落とすように努力しなさい。

人の世に戻ってもということは山は特殊な環境であるが、このことを忘れないで自分の穢れを祓っていく努力をすることが大事。山の中で払ったからこれでいいあるいは、何回山に来たからという計算はしない。

大事なことは自分の穢れが何かを知ることがまず大事。簡単にいえば自分の心の欠点と思えばよい。感情、何かに付けすぐおこりっぽくなったり、飽きっぽくなったりすことで人の運命を左右することにもなる。

怒らなくていいところで怒って事をだめにして自分の運命を損なっているが、それを祓ってみる。最終の形はいつもにこにこして良き言霊を発するようにする。

(今夜の夜参りで電子機器の操作ができなかったが、大事な時こうなることがある。)

欠点のない人間はいないしそれぞれに問題があるが、それを理解して少しでもその穢れを落とすように努力する。その努力によってその人の言霊は遠くに飛びやすくなる。また物事が成就しやすくなるともいえる。自分の穢れを日々落とす努力をすることを諦めないことが大事である。

 

「高宮」          平成26年7月9日

和魂を心に宿せる者たちよ。その心をこそ忘るることあるまいぞ。

その心があらば、幸魂 奇魂に通ずるであらう。

 

 

「奥津磐座

 

言霊こそ使ふべし。和魂の宿る心から発する言霊は

人ばかりでなく多くの物を動かすであらう。

力ではなく言霊である。言霊である。

 

「椿磐座

何よりうたは音霊、三輪の神に心を響かせるべし。