《明る闇について》 -見えても見えず人生の岐路―心の眼が閉じ、道を誤るー

 《明る闇について》 -見えても見えず人生の岐路―心の眼が閉じ、道を誤るー

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《明る闇について》 -見えても見えず人生の岐路―心の眼が閉じ、道を誤るー

「明る闇」を知っていますか?一言で言えば、肉体の眼は開いていて、周囲の日常の景色、仕事場での風景は見えていて、耳も聞こえ、それなりの日常的対応はできるのですが、心の眼が閉じられているので、物事の本質が見えていない状態なのです。感情過多であったり、理性が固執的であったりすると、だれもが陥りやすい闇なのです。極端な場合はオーム真理教や霊感商法で有名になった統一教会、法の華 三法行の会員のような洗脳状態になり、通常の常識が分らない状態になってしまいます。ここまでひどく無くとも巷の新興宗教の多くに見られがちです。また政治的方面で言えば、浅間山荘事件に見られるような極左翼の政治運動なども同様と言えます。また宗教とは正反対に立つ極端な唯物史観主義者もこの部類と言えます。 今の日本の社会ではどのような思想や考えを持つことも自由ですが、それが行き過ぎると、「明る闇」の世界に落ちてしまいます。この闇に陥ると、自分の感情に心地よい言葉や自分の立場を『あなたは正しい』とあなた自身を肯定する言葉しか聞こえてこなくなります。こうなったらもう「明る闇」に陥っているのです。人というものは常に絶対者、神、仏を求め、頼りやすいものです。ですが実際は神や仏ではなく、神や仏という名前に弱いのです。神社や仏閣において手を合わせる心は尊いのですが、たくさん神社、仏閣、聖地巡りをすれば神や仏に触れることができるかというと、決してそうではないのです。

一つの技を極めるとき、多くの名人たちを訪ね、教えを聞いても、極意に到達することはできないように、また一つの山を登るのに、山の周囲をいくら回っても山頂に到達することができないのと同じことです。また入り口に、神や仏の看板がかかり、「神や仏の道を求めるなら、どこから入っても同じですよ」とあったとしても、ほとんどの道は入り口だけ素晴らしくとも、みな行き詰まりとなり、神や仏の元には通じてはいないのです。 しかも残念ながら、神や仏の名を語り、導こうとしている多くのもが本物ではないのです。キリスト教のマルコ福音書にも、次のように述べられています。

―ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかにお尋ねした。 「わたしたちにお話しください。いつ、そんなことが起るのでしょうか。またそんなことがことごとく成就するような場合には、どんな前兆がありますか」。 そこで、イエスは話しはじめられた、「人に惑わされないように気をつけなさい。  多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がそれだと言って、多くの人を惑わすであろう」―と。私たちも気を付けねばなりません。極端な無理、仕事や日常生活に支障が出始めたら注意が必要です。

では私たちは何を信じ、何を求めていったらよいのでしょうか?私たちの進むべき道は永遠の真理・神理でなければなりません。一見見た目がよさそうな物に飛びついてはいけません。最低でも数百年の検証は必要です。私たちの心の支えの三輪山は『古事記』にも載る日本最古の神山で、大神神社は三輪山を護る日本最古の神社なのです。これほど確かなものが他にあるでしょうか。日本最古の聖地、神々が宿るお山なのです。私たちは一歩一歩三輪山の教えに従って歩んでゆかなければなりません。

いろいろな都合で一人でお山しなければならないこともあるでしょうが、お山の基本は美和の心で、三輪のように強い絆を神と人、仲間と紡いでゆかなければならないのです。ですから時間の繰り合わせもあるでしょうが、体の強いものも弱いものも一緒にお参りし、お山し、助け合い、美和の心を三輪山の大神に見ていただく必要があるのです。 そうすれば三輪の神の下で、豊かな人生を送ることができるのです。ただ三輪の神様は私たちに向上の努力を求めます。大神神社の藤田宮司や木山宮司たちが命尽きるまで与えられた仕事を成就し続けたように。ですから私たちも決して年のせいなどにはせず、前向きに生きる必要があるのです。

最後に三輪山短歌賞の締め切りが迫っています。三輪の神様への祈りの短歌としてお出しくださることを楽しみにお待ちしています。

平成29年8月26日               根本幸夫